2023年5月29日23:15~テレビ朝日系列で放送
『激レアさんを連れてきた。』にて放送予定の
信じられない身体能力のおかげで、一回も野球やったことなかったのに
プロ野球選手までのぼり詰めちゃった人として紹介された
近田豊年(ちかだ とよとし)さんについてまとめました。
この記事を読んでわかること↓↓
- 近田さんの幼少期からプロ入りまでのエピソード
- プロ野球選手時代のエピソード
- 近田さんの現在は?職業は?
是非、最後まで読んでいただけると嬉しいです。
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近田豊年
引用:CAMPFIRE
プロフィール
氏名:近田豊年(ちかだとよとし)
生年月日:1965年12月11日
身長:176cm
出身地:高知県宿毛(すくも)市沖の島
ポジション:投手 両投げ左打ち
明徳高等学校→本田技研鈴鹿→南海ホークス(ダイエーホークス)→阪神タイガース
NPB初で唯一の両投げ投手(スイッチピッチャー)として知られている。
経歴
小中学生時代
「全校生徒が10人くらいだったんで、野球部は中学までなかった。あるのは個人種目。卓球の試合に合わせて卓球、陸上の大会に合わせて陸上をやるような感じだった」
でも野球が好きだった。野球をやりたかった。そこで始めたのが“ひとり野球”。壁当てをしながら「1回表、投げました」のように試合を想定して遊んだ。「島なので、太平洋に向かって石を投げたりもしていました」。
「小学校5年くらいの時、プロ野球中継を見て、子どもなりに疑問に思ったのが右でも左でも投げるピッチャーが1人もいないこと。いないなら、自分がなりたいと思ったんです」。なんとなくだが、自信もあった。すでに、その頃から右でも左でも普通に投げ込んでいたからだ。
思わず「僕、右でも投げられます」 テスト合格で騒動に…前代未聞の“両投げ投手”
周りに一緒に練習する友達が居ないのに、1人で壁当てに太平洋スロー。
継続力が凄いですね。誰しもが飽きてしまいそう。
そんな近田少年にある転機が訪れます。
強運で高知の強豪明徳高等学校に特待生で入学
近田氏は中学まで野球の実戦経験がなかった。
「中3の時に四国の教員たちが、研修で僕の学校を見学に来た。その中の一人に四国の中学野球連盟の会長さんがいたらしいんです」。
昼休みにいつものように壁に向かって、その時は左で投げていたら注目を集めた。「左投げで、こんなに速い球を見たことがないって、明徳を紹介してくれた。明徳の練習に参加することになったんです」。
“太平洋投球”で鍛えられた肩は無茶苦茶強かったし、自然の中を走り回って、足も速かった。その力を発揮した。投げるのは左で勝負。結果、「特待生で入ることになったんです」。中学までの“ひとり野球”を卒業し、初めて野球をチームでやることになったのだ。
素人の壁当てに驚愕「こんな速い球見たことない」 偶然が生んだNPB初の“両投げ投手”
たまたま四国中野連の会長さんが島に来たことがきっかけに。
凄い強運の持ち主。
もし、この時にこの会長さんが現れなかったら、
スイッチピッチャーは誕生していなかったかもしれません。
明徳高等学校、社会人野球時代
左投げが中心だったが、コントロールが異常に悪かった。
「とにかくストライクが入らなかった。最初は打撃ゲージにも入るかどうかくらいでしたから。太平洋とはストライクゾーンが違いすぎましたね」
「右はバント練習とかでアンダースローで投げてましたが、試合に右で投げるのは頭の中になかったですね。1個もできないのに、2個もやるな、みたいな感じでしたし……」。
明徳では控え投手で終わった。選抜大会のマウンドもリリーフで1イニングを無失点に切り抜けただけ。でも野球を諦めることなく、社会人野球へ。本田技研鈴鹿に入社した。
「高校の時は球が速い、足が速いの基礎的なものがあっただけで、野球を他の子よりも知らなかった。それが社会人になって、なんとなく守備だとか、いろんな知識がついてきたんです」。
4年目になって結果も出始めた。プロもヤクルトのスカウトが見に来るようになった。社会人でも左投げが中心。「右はキャッチボールで投げたり、練習が終わってから投げたりする程度でした。すっかり、左1本でって感じになってました」。1987年ドラフト会議ではヤクルトに下位指名されると思っていた。だが、名前が呼ばれることはなかった。
素人の壁当てに驚愕「こんな速い球見たことない」 偶然が生んだNPB初の“両投げ投手”
幼少期の実戦経験の少なさからか、球速はあってもコントロールに苦しまれていたようです。
左で140キロ台後半を投げられていたようで、当時の左投手としては豪速球ですね。
ですが、ドラフトにはかかる事なく南海ホークスの入団テストを受けることになります。
南海ホークスの入団テスト
ヤクルトのスカウトに紹介されて南海の入団テストを受けることに。左で投げ終わった後、杉浦忠監督に「右でも投げられます」とアピールしてアンダースローを披露。人生が変わった。大して練習していなかった右投げが脚光を浴び、スイッチピッチャーとしてのプロ入りだった。右でも左でも使える6本指のグラブもできあがった。
素人の壁当てに驚愕「こんな速い球見たことない」 偶然が生んだNPB初の“両投げ投手”
高校、社会人では左投げ中心の練習。
右投げは試合で使うことを想定して練習していなかったが、
入団テストでの”ひとこと”で両投げ投手として見事に合格。
プロ野球選手として南海ホークスに入団することになります。
プロでの成績
南海ホークス(ダイエーホークス)時代
入団1年目
右でも左でも投げる“スイッチピッチャー”として話題を呼んだ
どこに行ってもマスコミにマークされる日々。
もちろん、スイッチピッチャーとして“活動”した。でも自信があるのは左投げの方だった。首脳陣の見方も同じだったが、騒がれている以上、もはや右を見せないわけにはいかない。そこで杉浦忠監督からこんな指令が出た。「『両方で投げるのはメディアが来ている時だけでいいよ』って言われました」。大勢の報道陣やテレビカメラが回っている時の練習では意図的に右のアンダースローと左のオーバースローを織り交ぜて、汗を流す“作戦”を展開していた。
「監督からは『左が力あるから、普段はそっち中心に練習するように』と言われていました」
ルーキーイヤーで開幕1軍を勝ち取った。
1988年シーズン、開幕4試合目の4月14日のロッテ戦(大阪球場)で出番がきた。4-8で負けている9回表に5番手で登板した。結果は1イニングを投げて打者4人に1安打1四球1失点。オール左で勝負したが「内容は全然駄目。スピードが出なかった。130キロいくか、いかないかくらいでしたから……」。すぐに2軍落ちとなったが、その時は思ってもいなかった。この登板がプロ野球人生、最初で最後の1軍マウンドになるなんて……。
マスコミ欺き続けた“両投げ”の代償 異様な注目が招いた酷使…開幕直後に迎えた限界
マスコミに騒がれて大注目だったプロ1年目。
キャンプから体を酷使し、開幕1軍を勝ち取ったものの、
すでに疲弊していて、100%のパフォーマンスではなかったのではないでしょうか。
初登板は1988年4月14日の対ロッテオリオンズ戦(大阪スタヂアム)
不運なことに、1軍での登板はこれが最初で最後。
一軍での生涯成績は1試合1イニングのみの登板、0勝0敗、防御率9.00
話題の右投げは1軍を舞台に披露されることはなかった。
プロ2年目以降、そしてトレードへ
プロ2年目の1989年シーズン、近田氏は1Aサリナスへ野球留学した。「その当時はどこの球団も何人か行かせてましたからね。ダイエーからは自分以外にも吉永(幸一郎捕手)とか数人いました」。すぐに両投げに注目が集まった。「両方で投げろって言われました。全然、日本と違うんですよ」。試合でも投げた。右、左だけでなく、上手、横手、下手も駆使して変幻自在の投球。「全部、自分で判断した。抑えるためにベストな方法を自分なりに考えました」。
1990年シーズン。「日本に戻ったら、枠の関係でチームに籍がなかった。背番号42はもらったけど、2軍でも試合に出られなかった」。公式戦の出場ができない練習生扱い。
そんな状況でオフに阪神へのトレード移籍が決まった。
「ダイエーが出してくれた感じでしたが、うれしかったですね。また試合ができるかもしれないってね」
帰国して絶句「チームに籍がなかった」 伝説の両投げ投手…待っていた“幽霊扱い”
2年目はアメリカ1Aへ野球留学。
留学中、数多くの試合に登板したが、帰国も登録枠がなく練習生扱いだったそうです。
そんな中、次の活躍の場を求め阪神タイガースへトレード移籍することに。
本人はまだまだ1軍での活躍を諦めていません。
阪神タイガース時代
阪神タイガース時代、そして新しい世界へ
阪神では米国と違って、両投げではなく「左1本でいってくれ」と指示されたが、秋季キャンプで評価も上がり、翌1991年の春季キャンプは1軍に抜擢された。だが、続かなかった。1年間の“ブランク”がここへきて影響したのか、実力不足も明らかだった。「だいぶ球速も落ちてましたし、体も横に大きくなってましたから……」。
オープン戦で結果を出せず、2軍に落ちた時には「もう野球では駄目だと思った」という。秋ごろには知り合いに「ゴルフでもやったらどうか」と言われた。もっとも、それまでゴルフはあまり好きではなく、ラウンドしても180を叩いたりしていたのだが……。
実は横浜大洋からも誘われていた。だが、これはきっぱり断った。
横浜大洋を断り「知り合いがゴルフって言ってたなぁ。よし、ゴルフをやってみよう」と簡単に決めた。阪神には自ら退団を伝えた。「明日からゴルフをやります」と……。近田氏のゴルフの腕前を知っていた人はみんな心配した。高知県出身の江本孟紀氏には「大丈夫か、お前、一番下手やぞ」と言われたという。実際、深く考えていなかったのかもしれない。「本当にゴルフを知らなかったから目指そうと思ったんでしょうね」。
帰国して絶句「チームに籍がなかった」 伝説の両投げ投手…待っていた“幽霊扱い”
1軍戦出場を目指し、阪神時代も試行錯誤していたが、オープン戦での成績不振で2軍落ち。
これを機に、野球でのキャリアに幕を下ろす決断をした。
知り合いにゴルフを勧められて、下手だったがゴルフの道へ進むことに。
近田豊年の現在は!?
ゴルフレッスンプロ
野球界からゴルフ界へ転身され、選手としてプレーするよりも教える楽しさに目覚めた近田豊年さん。
現在はレッスンプロとして、関西に20店舗ある『駅前ゴルフスクール』の校長として活動されております。
引用:近田さんのTwitterより
この駅前ゴルフスクールでは、近田式ゴルフメソッドとして、独自の方式でのレッスンをされています。
近田式では最速最短の上達を目指し、複雑に考えず、
ゴルファーそれぞれに合ったスイングで上達していくものだそうです。
ご興味のある方は是非体験レッスンを受講されてみて下さい。
野球は辞めてしまったの!?
現在、選手としては活動されてはいないものの、
2022年10月(当時56歳)で両投げギネス記録266Kmに挑戦されています。
惜しくも合計233km(左:122km、右:111km)で記録更新とはならなかったが、
野球をやっている息子さんをはじめとした、子どもたちに頑張っている姿を見せようと挑戦したようです。
まとめ
今回は、激レアさんにて紹介された近田豊年さんについてまとめてみました。
今回調べてわかったことはコチラです
- 幼少時の環境で両投げができるようになった。
- 強運に恵まれ強豪校に入学し、プロ野球選手になった。
- プロ野球の世界では苦しい事が多かった。
- 苦手なゴルフに興味をもち、教える楽しさに気づき、今ではレッスンプロとして大成功している。
最後までお読みいただきありがとうございました。
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